東京徘徊日記

東京でどう生きよう

湯河原の思い出

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気持ちの病が悪化し休職、実家で療養することが決まってメソメソしてるときに、恋人が半ば東京から連れ出してくれるような形で旅行に連れて行ってくれた。

 

普段はここではないどこかへ行ってしまいたい、と思ってるのにいざとなると半径40キロメートルから外に出るのを躊躇ってしまう。この時も日帰りでいいのにと思ったが、彼の提案に従うことにした。思い出をつくろうよ、という言葉に少しハッとしたから。

一ヶ月後どうなってるかもわからなかったわたしは、幸福な思い出を一つでも多く作っておきたかった。

 

3日前に決めて、2日前に宿をとった。

2日前だと、空いてる部屋はどこもちょっとした旅行には高すぎたり、安すぎたりして、丁度良い所を探すは難しかった。逆に言うと、超貧乏旅行したり、豪遊するつもりなら直前でも問題ないのかもしれないと、ぼんやり学んだ。

 

肝心の思い出はというと、夜は宿でバカみたいにお酒を飲んだため2人とも記憶をなくしている。

彼が一番楽しかったのは居酒屋から宿に帰る途中、雨が降って傘を買ったのにコンビニからでたらやんでたこと だそうだ。思い出はいつの日も雨かよ。

 

それでも最近は、この日のことを噛み締めては飲み込むのを繰り返している。

思い出す過去といえば数知れない黒歴史ばかりで、深夜に発狂、頭をフローリングに叩きつけながら浴びるようにアルコールを飲み、声にならない声と涙にならない涙を流すもの、と思ってきた。

でも、映画を観ているような感覚で幸福な過去を反芻し、励まされることもあるのかもしれない。

ジェーン・スー氏がラジオで失恋したリスナーに、20代後半だったら楽しい思い出をありがとうだよ、30代後半だったら辛いけどね、とおっしゃっていたから、今のところは、と断っておく)

 

だから、というわけじゃないが、作ろうと思って作れる思い出は作っておいた方がいいよ、と未来の自分に伝えたい。

「思い出に浸る暇もないってくらい思い出作りたい」(RADWIMPS 『おとぎ』)という歌詞にいたく感銘を受けた高校生の自分にも。

過去にしてしまうこと、思い出にしてしまうこと自体に怯えるのもわかるけどさ、悪いもんじゃないよ、と。